【巻頭言】エルトゥールル号事件
★イラン・イラク戦争の秘話
1985年3月17日、「いまから48時間以降、イラン上空を飛ぶ航空機は無差別に攻撃する」
とフセイン大統領が宣言。
日本政府の判断の遅れから、日本人の脱出が困難となりました。
在イラン日本大使館は、必死で各国と交渉したものの、どの国も自国民の救出に手一杯で、
応じてくれる国はありませんでした。
200名以上の日本人は空港で危機に瀕していました。
その時、トルコの民間機2機が空港に飛来、間一髪で日本人全員を救出し、
日本まで無事送り届けてくれました。
事情は誰にもわからなかったのですが、のちに駐日トルコ大使は次のように語りました。
「エルトゥールル号遭難の時、日本人がしてくれたことを私たちは忘れていません。
トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号のことを知っています。
だから、イラクで困っている日本人を助けようとトルコ航空機が飛んだのです」
トルコ政府は、日本人が脱出できずに困っていることを知り、
自国民救出のためにチャーターした最後の民間機を、日本人救出に振り向けたのでした。
その結果、トルコ人500名は陸路でイランを脱出しました。
★エルトゥールル号事件とは
1890年(明治23年)9月15日夜、トルコの軍艦エルトゥールル号は和歌山沖で台風に遭い沈没。
650名が海に投げ出され、69名が大島村(串本町)に助けを求めました。
住民たちは総出で生存者の介抱に当たりました。
住民は、衣類や食料を提供しましたが、たちまち底をつきました。
非常用のニワトリすら供出するなど、献身的に生存者たちの回復に努めました。
島を挙げての捜索で219名の遺体を収容。
遺体は遭難場所を見下ろす丘に手厚く葬られました。
政府を上げて遭難者に対する支援が行われ、生存者は日本海軍によって、
翌1891年1月2日にトルコのイスタンブルに送り届けられました。
このことはトルコ(オスマン帝国)国内に大きな衝撃を与え、いまでも広く知られるようになっています。
その後、和歌山には、立派な慰霊碑が建設され、毎年、エルトゥールル号慰霊祭が行われていて、
今年の6月7日の追悼式典には、来日中のトルコ大統領も出席しました。
★人を動かすのは感動
この話を知ったとき、私は大いに感動しました。
人が困っているとき、手を差し伸べる。
その当たり前のことが、どれだけ人々を感動させることか。そ
して、95年という長い時間を越えて、また多くの人を救い、また多くの人を感動させたのです。
★アフガニスタン支援
アフガニスタンは、「風の谷のナウシカ」のモデルとなったくらい長い間、平和な国でした。
それが急に、2001年「9.11事件」の報復として、
正当な理由もないままアメリカに一方的に爆撃されました。
『地球村』は、海外支援の経験はなかったのですが、この不条理に決断しました。
人命の危険もありましたが「できることをやろう!」と二人(のちに三人)のスタッフを派遣しました。
言葉の違い、文化の違いなど大変な苦労をしました。
第一次支援は、調査と緊急支援(食料、水、栄養剤、医薬品)が中心でした。
第二次支援は、生活水の支援(井戸の掘削)。第三次支援は学校建設でした。
★もっとも大切なこと
・信頼関係は、上下関係ではなく対等な友人関係であること
・言葉で伝わるのは7%、残り93%は生き様が伝わる
・笑顔、笑声、笑心であること
・明るく、ポジティブであること
・こういう人でないと成功も危ないし、生命も危ない
★パートナーシップ
『地球村』は現在、現地にスタッフを派遣しての支援活動はしていません。
『地球村』の活動のメインは、事実を伝え、グリーンコンシューマを増やし、
社会を変えていくことだからです。
海外に派遣する人材や活動の余裕がありません。
『地球村』は、下記の信頼できるパートナーとの協働や資金支援をしています。
☆AMDA (医療を中心とした緊急支援と自立支援)
☆セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン (子供たちの救済と自立支援)
☆テラ・ルネッサンス (子供たちの救済と自立支援、地雷除去や地雷被害者支援)
☆UNHCR・国連難民高等弁務官事務所 (難民支援、難民問題の解決)