巻頭言

【巻頭言】お百姓さん

百姓とは農民のことだと思っている人が多いと思いますが、
「百の姓をもつ者たち」「百の仕事をする人たち」、つまり庶民を表す言葉でした。
庶民はほとんど農民であったため、だんだん百姓=農民というイメージになってきましたが、
もともとは農業、漁業、林業という職業はありませんでした。
土地があれば田畑にする。海があれば漁をする。山があれば山仕事をする。
そのどれか一つではなく、できることなら何でもやったのです。
余裕があれば牛や馬やニワトリを飼ったのです。

私のいなか(滋賀県虎姫町)も田畑が主でしたが、牛やニワトリ、鯉(こい)も飼っていました。
子供のころ、家族で遊びに行くと、必ずニワトリか鯉を御馳走してくれました。
時々、肉を出してくれた時もありました。
「坊、これ何の肉か知ってるか」と聞かれて「牛!」と答えると、
「違う」と言われました。ある時は馬、ある時はイノシシ、ある時はヤギでした。
山ではシイタケを育てていたし、マツタケ、タケノコ、柿やあけびを採って来てくれました。
とにかく珍しいものがたくさん食べられました。
さらにカイコを飼っていました。そのあたりは、みんな、そんな風に暮らしていました。
農業でもなく、林業でもなく、しかし、野良仕事も山仕事もしていました。
米も野菜も作っていました。家畜も鯉も飼っていました。
1日中、忙しく、いろんなことをしていました。まさに百姓だったのです。

うちの家族は、よくいなかに遊びに行きましたが、そういえば、いなかの人は、
都会の私の家に遊びに来ることはありませんでした。
いま思うと、その家はお金はあまりなかったのでしょうけれど、とても豊かに暮らしていたのです。
思えば、それが昭和30年代。ほんの50年前でした。

もう少し、その頃を振り返ってみます。
一つの村は一つの家族のように暮していました。
農繁期は学校も休みになり、みんなで田植えや刈取りをしました。
なにかあるとみんなで寄りあい、みんなで祝い、みんなで大騒ぎしました。
村で生まれて、村で結婚し、村で暮らし、村で死んでいくのが当たり前でした。
中には、飛び出していく者もいましたが、それはわずかでした。
村には、鍛冶屋もいた、炭焼きもいた、焼物師もいた、医師もいた、葬儀屋もいた。
必要な仕事は、必ず誰かがやった。誰かができるようになった。
しかし、それも職業ではなく、ふだんはみんなと同じ、百姓でした。
大雨で川があふれそうになったら、みんなで土のうを積み、堤防が決壊したら、
みんなで堤防を直し、みんなで田畑も道も復旧しました。
台風で家が壊れたり、みんなで家を建て直しました。
みんなが家族だから、老後の不安もなかった。
そもそも「老」あったが、「老後」はなかった。そもそも「老後」ってなんだろう。
年金、生命保険、老人福祉、介護など、現在のような国の制度や
社会システムなどは何もなかったが、みんな安心して暮らしてました。
GNP(国民総生産)はいまの30分の1だったけれど、GNH(国民総幸福)はいまよりはるかに高かった。
日本もブータンのようだったのではないだろうか。
この50年、日本が努力してきた結果が現状だとしたら、いったい何をやってきたのだろう。
この50年で急成長した大企業が軒並み、
「史上最大の赤字」「大量解雇」「工場閉鎖」「拠点集約」「吸収、買収、売却」。
失業、失業で大騒ぎ。

いまこそ、これを機に方向転換が必要なことは明らかだと思う。
まず、食料の自給自足をめざすこと。
日本とドイツの違いをかんたんに述べます。
・日本は、減反政策と補助金、新農業法により農家の生産意欲を削いで来た。
・ドイツは、正反対。欧州共同体(EC)で共通農業政策(CAP)を導入。
生産増加、農家所得の維持、市場の安定化を図ると同時に、
消費者に合理的な価格で食料品を供給することを目標とした。
輸入農産物には関税と課徴金をかけ、域内の農産物は補助金によって価格を維持し、
域内農家を手厚く保護した。
農家は生産意欲をかきたてられ、土地の集約化によって生産は増加した。
いまからでも遅くはない。今までの間違いを改めること。
農政を180度転換しなければなりません。

★日本政府として
・ドイツ(EC諸国)のように、自給自足をめざして、農業、農地を守ること
・企業が農地を買収して農地以外に転用することを禁止すること
・農作物や食料の輸入に関税と課徴金をかけ、その財源で農業を復興すること

★私たちのできること
・国内の農作物を買うこと。輸入ものをできるだけ買わないこと
・家庭菜園、市民農園、援農をすること。お百姓さんをめざすこと
・飽食やぜいたくをやめる。必要な意思表示をする

※参考 『農協の大罪』(山下一仁著 宝島社新書)