スペシャル対談

2011年9月号1 飯舘村 村長 菅野典雄さん

「手間暇惜しまず、丁寧に、心を込めて、相手を思いやる」という意味の“までい”な生活文化が、今なお残る福島県飯館村は、「日本で最も美しい村連合」に加盟し、豊かな村づくりを進めていました。

しかし、福島原発事故の放射能漏れで、全村が計画的避難指示区域に…。

美しい村を襲った突然の悲劇を前に、村人とコミュニティを守るため、奮闘する菅野村長を訪ねてきました。

 

物言う女性が村を変える

 

高木 はじめまして。飯館村の本『までいの力』を読ませていただきました。(書籍リンクはページ下部にあります)  素晴らしい挑戦に驚きましたので、村長さんにぜひお会いしたいと思っておりました。どんな想いでこの村を作られたのかお聞きしたいし、微力ですが支援もしたいと思っています。

菅野 そうですか。それはありがとうございます。

高木 菅野さんはどういった経緯で村長に?

菅野 元々は酪農家です。昭和61年に「自分たちの村をよくしよう」という30~40代の若者たちで『夢想塾』を作り、初代塾長になりました。

平成元年からは嘱託で公民館館長になって、若妻をヨーロッパに派遣する「若妻の翼」に関わらせていただいたのが、一つの人生の転機でした。
高木 関わったとは。

菅野 夢想塾で、正月早々に大きな夢を語る「ホラ吹き大会」というのがあって、農家のお嫁さんを海外に出そうというのはホラの一つでした。前の村長の選挙を手伝ったときに、公約に押し上げ、実現しました。

5年間で91人の女性たちをヨーロッパに派遣しました。普通は、1年目に若妻だったら、次は青年、次はお年寄りと、派遣対象を変えていくことが、役所としての公平公正というものなのかもしれませんが、いろいろ言われても一切耳を貸さず、女性たちをヨーロッパに出しました。

 

女性はチャンスが与えられればどんどん伸びます。それまで言いたいことも言えなかった女性が、人前で自分の考えを話せるようになり、今では全国各地で講演をしている人までいます。

 

 

「公平公正にやらない」ことで、人は育つのだと思います。

高木 ユニークですね。その無茶な考え方は、どこから生まれてきたのでしょうか。

菅野 「個」という考え方を、夢想塾で勉強したんですよ。村長になったときも「これからは『個の尊重』を大切にする時代だ」と言ったら、「『この村長』を大切にしろとはどういうことだ」と叱られましたが。

高木 あっはは。おもしろい方だなあ。

 

「個の尊重」を大切に

 

菅野 6000人の村人一人ひとりを「個」として捉えているから、ハーフチケット制度なんかもできるわけなんです。

高木 ハーフチケット制度って何ですか。

菅野 たとえば、文化ホールを隣の村が作ればうちも作る、そして経費がかかる、稼働率が問題になるといったことが起きる。そこで、「東京に遊びに行って歌舞伎を観てきた場合など、半券を持ってくれば村が半額出しますよ」という制度を作りました。

普通、役所というのは、個人にはお金を出さないんですよ。何かあれば、組織を作れって話になる。

でもこれからの時代は、一人ひとりが輝かないと、村も自治体も輝けないと思うので、個を大切にした事業を行ってきました。

「若妻の翼」でも、「戻ってきた嫁が口答えをする。出歩くようになった。不良嫁になった」と役所にクレームも来ましたが、私はむしろ、「もっともっと騒ぎなさい」と応援していました。

高木 すべて、これまでとは逆なんですね。よくリコールされずに、村長を14、5年続けてこられましたね。

菅野 厳しい選挙もくぐってきていますよ。一度は合併問題があって、村長選で決着をつけました。でもあの時、合併していたら、今度の原発事故で、村は空中分解していたのではないかと思います。

高木 現在は、どうなっていますか。6000人の村人はどこへ。

菅野 国は、避難先として遠方の他県を提案してきましたが、私は村から1時間以内の場所だと言いました。

なぜ1時間以内かというと、通勤を延ばすだけで仕事を辞めないで済む、子どもたちも転校させずに済む可能性もある、バラバラになった家族が週末だけでも会うことができる、そう考えて徹底的に1時間にこだわりました。

高木 一番たくさん村人が避難したのはどこですか。

菅野 福島市です。3500人ほどが避難しました。5、6カ所の仮設住宅、あとは個人の住宅に入っているという状況です。

高木 こうして、福島市飯野町役場の中に飯館村役場の出張所があるわけですが、こちらでは、主に福島市に越した人たちをお世話しているのでしょうか。

菅野 いいえ、村人6000人全員が対象です。

高木 そうですか、それは大変でしょう。

 

「2年で帰る」を心の支えに

 

高木 『地球村』では、被災地に無料でお米を届けようという「応援米プロジェクト」を立ち上げて、1000俵のお米を確保しようとしています。飯館村へもお米の支援をさせていただきましょうか。

菅野 それはありがたいです。現在、うちの村は一切、米を作れなくなりました。これまで、自前でお米を作ってきた人たち全員、米なしの生活になります。お米の支援はありがたいと思います。

高木 ではお米がとれてから、具体的にご相談しましょう。あと、人手の方はいかがですか。何かお困りのことは?

菅野 津波の被害と違って、うちの場合は放射能なので、手伝っていただくことはないんですよ。

ただし、できることがないわけではありません。この前も大学の先生がいらして「何をすればいいのか」というので、「学生さんたちがパソコンを持ってきて、年寄りの話を聞いてくれて、自分史作りのお手伝いをしてくれたら、みんな大喜びです」と答えましたが、「人間のフォロー」をしていただけたらうれしいです。

高木 なるほど。たとえば「傾聴ボランティア」ですね。それは生きがいになるでしょう。ところで、難しい状況ですが、復興について、どのような見通しを立てておられますか。

菅野 年内はこのままですが、来年が勝負でしょう。2年で一部を戻させるつもりでいます。国がダメだといっても。

高木 心づよい言葉ですね。実現を願っています。

菅野 復興の原点は、そこに住んでいる人たちが自分の故郷を思う気持ち、家族を思う気持ち、農地や牛を思う気持ち、そうした思いを活かすことだと思います。その方が、国も我々も助かるし、保証金も少なくて済む。

だからもっと自治体に裁量権をくださいという話をしています。

裁量権をもらうということは、住民と喧嘩もしなくちゃいけないんですよ。喧嘩をしようにも、国は住民の心がわからないでしょう?

だったら現場の私たちに苦労を分けてはどうかというのです。

こんな大変な時に首長になったというのは運命ですから、もう苦労するしかないんです。今この状況では、全員が賛成する話なんてあるはずありません。半分が賛成なら半分は反対だし、バッシングもありますが、住民と向き合っていくしかないんです。

高木 本当に大変ですね。お米ができる頃、またお伺いします。これからもできる支援をしたいと思います。村長さんもお体に気をつけてがんばってください。

菅野 ありがとうございます。今度、本が出るんです。よかったら、みなさん、読んでください。