【巻頭言】世界は変わる(2)
今年は1992年「リオ・サミット」(国連地球環境会議)から20年、それを記念して「リオ+20」が開催されます。世界は再び、地球環境を守るためにリオに結集しようとしています。『地球村』も準備を始めていますので、地球サミットについてまとめました。
★地球サミット
サミットは各国のトップ(大統領、首相)が集まる会議です。
通常のサミット(G8)は、主要8カ国のトップが集まり、世界全体の政治、経済、軍事について議論し決定しますが、わずか8カ国で世界のことを決めることには多くの国が不満があり、主要8カ国に欧州連合と新興国11カ国を加えたG20が、G8に取って変わろうとしています。
しかし地球環境は、8カ国や20カ国で決める問題ではないということで、国連主導で、多くの国のトップが集まる地球サミットが開催されることになりました。以下に、その経過をまとめます。
★第1回目(1972年 スウェーデン・ストックホルム)
1972年ストックホルム会議(国連人間環境会議)が開催された。
当時、先進国では公害問題が大きな社会問題になり、「成長の限界」(ローマクラブ編)が出版された年でもあり、「我々の進んでいる方向は間違っているのではないか」という世界的な反省があった。
会議の結論として「これ以上の成長は見直すべきだ。地球サミットは10年に一度開催する」ことを決めた。
※日本は参加していなかった。
★第2回(1982年 デンマーク)
1982年、第2回会議をデンマークで開催する予定だったが、経済優先のアメリカ、発展をめざす途上国が、「成長の限界」という考え方に強く異議を唱えた結果、代わりに特別委員会が設置(議長はデンマークの首相ブルントランド女史)され、2年間の会議によって、有名な報告書 "Our Common Future"『地球の未来を守るために』が出された。
この中で、「将来世代のニーズを損なうことなく現在の世代のニーズを満たすこと」という「持続可能な開発」の概念が提唱され、その後の指針となった。
※日本は、これにも参加していなかった。
★『地球村』設立
当時、地球環境は急速に悪化、オゾン層破壊、森林破壊、温暖化、砂漠化、食糧危機、人口爆発、飢餓貧困、生物種の絶滅など、ほぼすべての環境問題が出そろい、世界的な話題となっていた。
しかし、日本ではオゾン層破壊すら、「なんのこと?」という状態だったので、私は個人的に、講演活動を始めた。
それと同時に、長年の研究所勤務から、本社の社長の直属として参謀職についた。
就任すると同時に、社長や幹部に事実を説明し、社内でできることとして、フロン全廃、割り箸全廃、松下の森(森林保全)、環境憲章の策定などを次々と推進していった。
そういう活動が新聞などで大きく取り上げられ、私の講演依頼はどんどん増えていった。
世界の環境意識が高まる中で1990年、「次回の地球サミットはリオ」と発表され、「リオサミットで何が議論され、なにが決定されるのか」に、世界の注目が集まっていた。
当時はまだ『地球村』設立前で、私は個人として、講演、論文、著述活動をしていたが、リオサミットにどういう形で参加をするか考えた末に、NGO『地球村』の代表としての参加を決めた。
当時、私の仲間は300人くらいだった。
1991年1月1日、最も熱心な方々十数名を自宅に集め、私の決意を述べると共に今後のビジョンを発表、全員の賛同、大きな感動の中で、『設立趣意書』が承認され、『地球村』が設立された。
★第3回(1992年 ブラジル・リオ)
1992年5月、世界の注目の中、リオサミットが開催された。
ほぼ全ての国連加盟国である172ヶ国が参加し、空前の大きな国連会議となった。
私は、すでに合唱団の指揮者をやめ、会社を退職することも決意し、大きな期待でリオサミットに参加した。
こう書いていると、当時の多くの感動のシーンが怒涛のようにフラッシュする・・・
JAPANテントで連日、熱い議論!
外国のNGO仲間との熱い交流!
いまでは「伝説のスピーチ」となったカナダの少女、セヴァン=スズキ(当時12歳)の国連本会議場でのスピーチ!
今日は、未来の子どもたちと、滅びゆく動物たちのために話します。
あなた方は、オゾン層の穴を塞ぐ方法を知っていますか。
絶滅した生物をよみがえらせることができますか。
砂漠を元に戻すことができますか。
それができないなら、今すぐ、それをやめてください。
あなた方おとなは、私たちに言います。「争いをしないこと」
「話合いで解決すること」「ちらかしたら自分で片付けること」と。
なぜ、おとなは、それを守らないのですか。
私たちの未来を真剣に考えて下さい。
子どもたちを愛していると口で言うのなら
どうか行動で示してください。』
(抜粋)
このスピーチは、世界中に大きな衝撃を与えた。
彼女の父は、カナダで最も有名な環境運動家、デイビッド鈴木だった。
私の大きな衝撃のもう一つは、国連の本会議では主要国のトップが逃げとごまかしの議論を続ける中、大きなNGOの代表が堂々と意見を述べ、主要国のトップと対等に議論し、利権を主張している世界のトップを圧倒している姿に感銘を受けた。
これらの「伝説のスピーチ」や「NGOのスピーチ」は、世界に放映され、世界中の環境市民に希望を与えただけではなかった。
★私の夢
リオサミットは、私に決定的な影響を与えた!
帰国した私の心の中には、すでに、10年後の次のサミットに向けて「3つの大きな夢」があった。
- 1.10年後、日本最大のNGOの代表として参加する!
- 2.10年後、(今回は1人参加だったが)100人の仲間と参加する!
- 3.10年後、世界を変える大きな構想を提案する!
ということだった。その時、私は45歳だった。
★その後の10年
その後の10年は、私にとっても『地球村』にとっても輝かしい10年だった。
帰国して、すぐ『地球村』の組織作りに取り組み、会社での仕事の仕上げに入った。私のエネルギーは全開に達した。
会社では社長以下、幹部のほとんどが『地球村』の会員になってくれた。
講演依頼が急増し、講演回数は年間300回を超え、会員数も急増した。
地域『地球村』が100地域を越え、会員数3万人(賛同会員10万人)を超え、『地球村』は日本最大のNGOに成長していった。
「次回のサミットには、日本最大のNGO の代表として、たくさんの仲間と共に参加する」という夢は実現に近づいたが、もう一つの夢「世界を変える仕組み」がなかなか浮かばない。
現状の国連は、各国政府の代表によって議論される。
しかし、国家の利益を優先する限り、地球環境も守れないし、世界平和も実現しない。
ましてや飢餓貧困の解決など不可能。
さあ、どうすればいいのだろう・・・
2年後に次回の地球サミットを迎える2000年、ついに「世界を変える仕組み」の構想が浮かんだ!
★『地球市民国連』
現状の問題「各国の代表が、国家の利益を優先して話し合う現状の国連では、世界平和は不可能」という問題を掘り下げていくと、「現状の問題の真逆、正反対を考えればいいのだ!」と気づいたのだ!
つまり、「各国の代表ではない人々が、国家の利益を優先せずに、意見を述べ、協力し合えば、世界平和は可能!」
各国の代表ではない人々とは?・・・そうだ!市民だ!
国家の利益を優先しない市民とは?・・・そうだ!地球市民だ!
では、どのように?・・・
国連本部(ニューヨーク)ではなく、ジュネーブではなく、リオではなく・・・
そうだ!インターネットを使って全世界でつながればいいのだ!
オゾン層破壊、温暖化、森林破壊などの環境問題や、飢餓貧困、人口問題、食糧問題、資源、エネルギー問題、核の問題、戦争と平和の問題など。
様々なテーマごとにインターネット上に会議室を設け、地球市民が、意見を述べ合うのだ!必要なら議長や司会を設ければいい。
最後には意志表示をして表決によって決定するのだ!
地球市民の決定を、地球市民自らが実行するのだ!
★決定従わず、環境破壊や戦争を続ける国に対しては
全世界の市民(地球市民)が、反対の意思表明をし、その国の行動を非難し、その国のものを買うのをやめ、その国に輸出することをやめ、その国に行くのをやめ、その国を支援することをやめるのだ!
世界の何十億人の声には、その国の市民も同調するだろう!
その世界の声、国民の声を無視して戦争を続けられる国があるだろうか!
★環境破壊された地域、被災国、被害国に対して
全世界の市民(地球市民)が、支援の意思表明をし、その地域の被害を修復すべく、資金、技術、人材などあらゆる支援を行うのだ!
★武力について
地球市民は、以上の平和的手段で戦争を止め、平和を実現する。
現在、各国が保有している武器を縮小し、『地球市民国連』の管理下に置く!
以上が『地球市民国連』の構想なのだ!これで、私の3つの夢は出そろった!
★国連NGO『地球村』
『地球村』は日本最大のNGOになったが、国連にどうやって参加すればいい?
国連への参加について調べ始めた。
まずは、国連の認証団体となることが必要だということがわかった。
それには・・・多くの条件があったが、簡単に書けば、「国連にとって価値ある団体であり、十分な実績があること」
十分な実績とは・・・国連活動に沿った団体活動として5年くらいの実績がなければならない・・・しかし、もう時間がない!
2001年5月、私は国連本部に出向き、担当官に直接談判。
なんと4月末で、国連認証の審査受付が締め切り!
私は担当官に、『地球市民国連』構想を熱く説明!
すると担当官が「すごい!これはぜひ、国連で語ってほしい!
了解!例外措置をとりましょう!」と約束してくれました!
そして・・・(次回につづく)