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【地球は今…】江戸時代(1)~開発から成熟社会へ

江戸幕府と江戸の人々は、上方(京都、大阪)に比べるとかなりの田舎であった江戸をどのように発展させたのか。
大規模開発の弊害を、どのように乗り越えたのか。歴史を紐解いてみよう。(高木善之、落合眞弓)

●江戸のはじまり

★1590年、徳川家康は、豊臣秀吉から関東へ移封を命じられた
★1603年、家康は、征夷大将軍に任ぜられ、江戸を幕府の本拠地とする
★江戸時代は 1603 年から 1868 年(15 代将軍 徳川慶喜)に至る約 270 年間

●家康の先見の明:大都市にふさわしい江戸の立地

当時の江戸は、海抜が低い湿地帯で、多くの人が生活できる場所ではなかった。
家康は、関東平野や東京湾、日本最大級の利根川水系などの大都市としての将来
性を見込み、大規模開発を進め、現在の首都圏の基礎を築いた。

【大都市として栄える条件】
★広大な平地があり、海や大きな川に面している地形であること
★物流が発展する水路などの環境が整っていること
★埋め立てて、住みやすい土地へと変えるなど発展の余地があること

●江戸時代の人口、耕地、石高の推移

★前期 100 年で、農地は室町時代中期の 3 倍 280 万町歩に拡大。
 人口は 1200 万人から 2800 万人、2.3 倍に爆発的に増加
★その後の 170 年、耕地はやや増加、人口は安定した

●江戸前期は大開発時代

★江戸開幕から元禄時代(1688 年~1704 年)の終わりまでの 100 年間は、日本史上類例のない急激かつ巨大な開発がなされた
★巨大な用水・土木工事ラッシュが続き、北上川・利根川・大和川・信濃川・筑後川など、主要な大河川はこの時代に改修されたり流路の変更が行なわれたりしている

大規模開発の成果と弊害

★これらの大規模開発によって耕地面積が広がり、農業生産は高まり、人口も増え、都市が繁栄した
★また、浮世草子の井原西鶴、俳諧の松尾芭蕉、浄瑠璃の近松門左衛門、浮世絵の
葛飾北斎など元禄文化全盛の時代が到来した
★しかし、年貢を 3~7 年タダにしての新田開発を勧めたために、既存の田畑に手がまわらずに本田畑の荒廃を招いた
★草木を根こそぎ掘り取っての山川の開発は、一夜にして町や村を全滅させるような大洪水を全国各地で頻発させるようになった
★1人当たりの石高は 1600 年の 1.6 石から享保期(1716~36 年)には1石割寸前までに落ち込んだ
★人口増加も 1730 年の 3200 万人をピークに漸減傾向になった

●大規模開発の反省

幕府は、行き過ぎた開発を反省し、「諸国山川掟」(1666 年)を出し、草木の根株の採掘を禁じ、植林を推奨するなど、開発至上主義を転換した。
元禄から亨保期以降、山の価値を見直し始めた。水田にとって、山は水源であり、刈敷という肥料源でもある。
急傾斜地で雨が多い日本は、山の草木が土砂流出を防ぐ重要な役目を果たしていることを理解し、山とのつながりを回復していった。

●地域振興による成熟社会へ

★新田開拓から、既存の田畑をていねいに耕作する方向に転換
★その結果、紅花、綿、菜種、藍などの地域資源を生かし、地域の名産が生まれた
★朝鮮ニンジンなどの輸入品の国産化によって、貿易収支は黒字になった
★江戸中期以降は安定した成熟社会へと進んでいった

 江戸時代初期は現代日本の経済優先と似ていたが、幕府は問題点を早期に理解し方向転換した。
 特に森林の乱伐採、乱開発を禁じ、伝統的な農法を重視、それが結果として長期安定社会を実現した。
 鎖国政策も、経済拡大、宗教伝来を阻止した。
 現代日本はいまだに経済優先から「永続可能な社会」へ方向転換ができていない。
 マインドセットを変えない限り、問題の解決はできない。
 私たちはあらためて江戸時代の人々を見習わなければならない。

次回は江戸時代の人々のエコな暮らしなどを取り上げます。お楽しみに(^^♪