【スペシャル対談】音楽評論家・作詞家 湯川れい子さん〔1〕
洋楽の評論家、作詞家、翻訳家、DJとして、国内外の音楽シーンをけん引されてきた湯川れい子さん。
平和、環境、音楽療法の世界でも活躍されています。女性として社会をリードしてこられた経緯、環境問題への取り組みや温暖化についてお話を伺いました。
★社会をリードする女性の生き方
高木 お久しぶりです。私の間質性肺炎がわかったとき、すぐにお見舞いのお手紙をくださってありがとうございました。さて、前回の対談は10年前で、今回は2回目です。どうぞよろしく。
湯川 そうなんですね。
高木 最初の出会いを、覚えておられますか。
湯川 30年以上前でしたね。私の仲間に講演していただきました。
高木 そうでしたね。その後長く『地球村』の仲間になっていただきありがとうございます。ご活躍はテレビなどで拝見しています。
湯川 ありがとうございます。
高木 湯川さんの著書『時代のカナリア』を読ませていただきました。湯川さんの人生が詰まっていますね。大変な苦労をされ、戦後は女性として社会をリードしてこられましたね。とても衝撃を受けました。
湯川 そうですか。ありがとうございます。『時代のカナリア』には、第二次大戦で長兄が戦死し、次兄も行方不明。そして父も亡くなっていたので、何とかして母を食べさせていくにはどうしたらいいだろうと、本当に悩ましい戦後を 9 歳で迎えた私が、働く女性として綴った昭和史でもあります。
高木 戦後、気持ちの大きな変化にはどんなきっかけがあったのでしょうか?
湯川 私にとってすごく大きかったのが、「これからの時代は『ガールズ・ビー・アンビシャス』だ!」と言った学徒動員帰りの25歳の中学の社会科の先生の言葉です。女の子も、自分の好きな人生を送っていいのだというのがものすごく大きな印象として残っています。
高木 なるほど。働く女性として生きてこられたエピソードをお聞かせください。
湯川 世の中にはそうした女性の生き方のロールモデルが全くなくて手探りで生きる中で、原節子さんの『女医の診察室』という映画があって「女性でもお医者さんになれるんだ」とすごく嬉しかったんです。でも、それには大学を出なければならないんですね。とても母の経済力で私が大学を出ることはできません。苦しい生活でしたが、母が高校だけは何とか行かせてくれました。
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